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【西洋絵画】ドラクロワ-ロマンを求める情熱の画家

先日は、アングルを紹介しましたので、今回はアングルのライバルとして紹介されることの多い、ドラクロワを取り上げます。

アングルは新古典派主義に属します。新古典派主義は古代ギリシャ・ローマ時代の美を理想とする立場です。これまでも評価されてきたこれらの時代の美(理想美)を、冷静に追求していきます。

躍動感のあまりない固定的な構図や滑らかな陰影が作品の特徴です。

 

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 これに対し、ドラクロワロマン主義です。こちらは、新しい美のあり方を模索していく立場です。言わば、情熱的に「美」を追い求めます。理想美を追求するだけでは先人の巨匠たちを超えることはできません。他者と違った作品を作り、個人がそれぞれ持つ美の基準(個性美)に訴えかける作品を作っていきます。

ロマン主義では、当時の戦争等の大事件を、リアルタイムに描いた時事画や、それに伴う悲惨な現実も描いています。

こちらは、躍動感ある構図や荒々しいタッチが特徴です。ドラクロワの他に、ゴヤジェリコーがロマン派に属します。

前置きが長くなりましたが、ドラクロワを紹介していきます。

経歴

ドラクロワ(1798年~1863年)はパリ近郊に生まれます。外交官の裕福な家に生まれたとされていますが、本当の父はタレーランという説が有力です。*1

ルーベンスの荒々しいタッチや、ヴェネツィア派(ジョルジョーネやティツィアーノらが有名)の色彩豊かな画風に影響を受けます。

1832年に、七月革命後のブルボン復古王政のもと、モロッコ使節団に同行します。当時はまだ写真がなかったため、記録係として画家が同行するのが習わしでした。

1838年にはブルボン宮殿図書館や、ヴェルサイユ宮殿の装飾を政府から依頼されます。

1863年に65歳で死去します。

民衆を導く自由の女神

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ドラクロワと言えば、これ!的な作品です。こちらは1830年に描かれました。フランス革命を描いたように思われますが、実は違います。(私も勘違いしていました。)

世界史が好きな方なら制作年でピンと来たかもしれませんが、七月革命を描いた作品です。

七月革命フランス革命によりブルボン王家が倒れた後、ナポレオン失脚後に再度ブルボン家が王権を握ったことに反発する革命です。1830年に起こりました。

この一大事件をドラクロワは同年に描いています。自由を求める民衆の躍動感が、ひしひしと伝わってきます。

中央にフランス国旗を持って乳を出している女性は、人間ではなく「自由」を擬人化した存在です。女性が被っている帽子はフリジア帽と呼ばれ、自由を象徴するアイテムです。(古代ローマで解放された奴隷に、フリジア帽を与えられたことが由来だそうです。)

また、女性と倒れている人とをそれぞれ結ぶと三角形の形になります。これは躍動感を演出するピラミッド型の構図で、バロック絵画でも多用されています。

因みに、シルクハットを被る紳士は、ドラクロワ本人と言われています。彼自身もブルボン家復権に対しての怒りを表現したのでしょうか。

タレーランはブルボン王政を復活させましたから、本当に父がタレーランとするなら、父に対して反対したことになります。

「キオス島の虐殺」

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こちらは1824年に描かれた作品で、同年代に発生したギリシャ独立戦争を描いた作品です。タイトルは「死か奴隷かを待つギリシャ人の家族」と続き、戦争の悲惨さを表しています。*2

写真がなかったこの時代、ギリシャ人の無残な様子を描いたこの絵画は、戦争写真のようなジャーナリズム的な意味合いもあり、ギリシャ独立を支援する世論の形成にも一役買ったのではないかと思います。ギリシャ1830年に独立が決定しました。

絵具が見えるほどの荒々しいタッチや、悲惨な事件を題材にしたことに対して当時の美術界は批判し、「絵画の虐殺」と揶揄したそうです。

「アルジェの女たち」

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1834年に描かれたこの作品は、モロッコ使節時のデッサンを基に描きました。美麗な服装や装飾品を身に付けるオリエンタルな女性の様子だけでなく、水煙草、絨毯、タイルやクッション等、当時の生活様式も伺えます。

アングルもオリエンタルな女性を描きましたが、その画風の違いに驚きます。

アングル「トルコ風呂」

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アングルと並ぶ巨匠でありながら、ドラクロワのアカデミーへの入会はなんと1857年で、死去の5年前です。しかも、アングルは最後まで入会を反対していたそうで、対立の根が深そうです。

しかしながら、当時の人々がリアルで臨場感の溢れるロマン派の絵画を求め始めていた世論もあり、ドラクロワはアカデミーへ入会します。

また、アカデミーからは嫌われていましたが、政府のモロッコ外遊には随行し、政府関係の仕事はよく受けていたので、政界と美術界とはそれぞれ権力が分立していたのだと個人的に思いました。

それでは本日はこの辺までと致します。お読みいただき、ありがとうございました。

*1:タレーランはフランスの政治家でウィーン会議に出席するほどの実力者

*2:ギリシャ独立戦争は、ギリシャオスマントルコからの独立を求めた戦争です。