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【西洋絵画】ゴーギャン-南国の楽園に救いを求めた、破滅的人生

本日は、ゴーギャンと彼の代表作の紹介です。

サマセット・モームの「月と六ペンス」では、主人公の芸術家が安定した生活を捨てて芸術へ傾倒していく破滅的人生が書かれています。この主人公のモデルはゴーギャンだと言われています。

まさに、ゴーギャン(1848年~1903年)の人生も芸術に取り憑かれた人生でした。

ゴーギャンと言えば、タヒチに移住してからの作品が有名ですが、そこに至るまでの紆余曲折も書いた方が深みが出ます。少々長いですが、お付き合いください。

生涯

ゴーギャンはパリに生まれますが、生後すぐに家族でペルーへ亡命しています。

フランス帰国後は17歳で船員として働いた後、株式仲買人の仕事に就きます。

その2年後に結婚し、5人の子供を設けます。

彼は日曜画家として、働きながら絵を描いていました。このまま普通に働いていれば、家族に恵まれた安定した生活を送れたことでしょう。

しかし彼は1883年(35歳の年)に会社を辞め、画家としての人生を歩み始めます。

収入が安定しなかったために、その翌年には早速、妻が子供を連れてデンマークの実家へ戻っています。

ゴーギャン1888年ゴッホとアルルにて共同生活をしますが、僅か2ヶ月で「耳切り事件」が起こり、共同生活を解消。

ブルターニュのポン・タヴェン村に移り、制作を続けます。代表作に「黄色いキリスト」という作品がありますが、このモデルとなった黄色いキリスト像は、村の教会に実在します。

そして遂に、1891年、タヒチへと移住します。移住の理由は西洋文明に疲れたためや、安い生活費のためと言われています。絵画が評価されていなかったゴーギャンにとっては、起死回生を賭けての移住だったと思います。

1893年に一時帰国し、個展を開催しますが、結果は芳しくありませんでした。

失望したゴーギャンは1895年に再びタヒチに渡ります。

貧困や病気に悩みながら、孤独に制作を続け、1901年にタヒチよりさらに鄙びたマルキーズ諸島に移り、1903年に54歳で没します。

彼が評価されたのは死後でした。その自由な色彩表現はマティスらのフォービスムに影響を与えたと言われています。

生涯についての記載が長くなってしましましたが、絵画の紹介に移ります。

「イア・オラナ・マリア」

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1891年に制作された、タヒチ時代の代表的絵画です。絵の特徴としては、エキゾチックな現地の人を描きながらも、キリスト教的意味もばっちり込めた所が挙げられます。

画面右の、子を肩に載せた女性に対して、女性二人が手を合わせて祈っています。

子と女性の頭上には光の輪があることから、それぞれイエスとマリアと分かります。

画面左のピンクのパラオの女性には青い翼が生えていますから、こちらは天使です。

さらに、絵の題名の「イオ・アラナ・マリア」とはタヒチの言葉で、「マリア、私はあなたを礼拝する(アヴェ・マリア)」ということから、この絵は聖母子に祈るキリスト教的絵画と言えます。

ゴーギャンは一旗揚げるためにタヒチへ来たわけですから、ヨーロッパの人を驚かせるために生まれたのが、平面的で鮮やかな色彩で異国情緒を描きながらも、タヒチ女性をマリアに置き換えた斬新な絵画でした。

当時は人々が新古典主義から脱却し、印象派がようやく認められた時代です。

ゴーギャンの絵は時代を先取りしすぎていて、評価されませんでした。

「アリスカンの並木路、アルル」

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時代が前後して申し訳ないですが、これは1888年ゴッホとの共同生活時代に描かれた作品です。

こちらは優しい雰囲気と軽いタッチで描かれていて、印象派の影響を少なからず受けていたのではないかと思わされます。

しかしゴーギャン印象派絵画に対して、単に外の世界を描いているだけで、絵に意味合いがないという不満を持っていました。

ゴッホと喧嘩別れしてから、ブルターニュへ滞在しますが、そこで制作された作品から既に、眼前の風景と宗教的意味をミックスするという、印象派とは一線を画す絵画を目指していたことが分かります。

「黄色いキリスト」

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1889年に描かれたこの作品では、磔刑の黄色いキリストにブルターニュ地方の民族衣装を纏った女性が跪いています。農村の風景や農民とキリストとを同じキャンパス内で描いています。

この絵のように、見える世界と見えない世界を絵画の中で統合した作品を、綜合主義と言い、ゴーギャンが第一人者です。

「イア・オラナ・マリア」はこの絵画の延長線上に制作されたと言えます。

また、ブルターニュ時代に制作された絵画の特徴がもう1つあります。

ブルターニュの海岸」

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 こちらも1889年に描かれた風景画ですが、「黄色いキリスト」と共通する特徴として平面的に絵具を塗り、それが境界の役目も果たしています。このような表現をクロワゾリズムと言います。

そして、ゴーギャンの集大成とも言えるのが次の絵画です。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

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 これは1897年~1898年の二度目のタヒチ滞在で制作されたものです。作者自身で「これまでで最も優れており、これからもこれ以上のものは書くことはできない」とまで述べています。

当時のゴーギャンは困窮や病気に苦しんでおり、友人に宛てた手紙の中で、「死ぬつもりであったが、死ぬ前に大作を描こうと思う」と書いています。

また、娘の死も重なり、本作完成後は服毒自殺を考えていたようです。

これは、人生の全てを賭して描いた超大作なのです。

画面の右から左はそれぞれ時間の経過を表していて、若年期~青年期~更年期がそれぞれ描かれています。

旧約聖書の禁断の果実(林檎)を食べる場面を思わせる描写や、青白い像はポリネシアの月神ヒナを表しており、古今東西の様々なモチーフを組み合わせて描いています。

 おわりに

既存の価値観を否定し、自身の信じる芸術を表現したゴーギャンは、時代を先取りしていたために、当時の人から評価されることは殆どできませんでした。

しかし、死後の評価は私が言うまでもなく圧倒的なものがあります。

他の画家とは一線を画すその絵は、私たちは人目見ただけでゴーギャンの絵だと分かります。このような画家は数少ないと私は思います。

他者に伍することなく、人生の全てを芸術に捧げたゴーギャン

私はゴーギャンについて調べるまで、タヒチに移住してスローライフを満喫したお気楽な画家だとばかり思っていました。

しかしながら実際の、温かい家族を捨て、孤独や困窮に苛まれながらも南国に救いを求め、制作を続けたその人生は壮絶なものがあります。

今後、美術館等で彼の絵を見る際は、画家の苦悩を想像することで絵の印象も変わってくるのではないでしょうか。