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クールベ-新古典派でもロマン派でもない、第三の道

少し更新が滞ってしまいましたが、今回はクールベ(1819年~1877年)を紹介します。

 クールベは写実派(リアリズム)に属します。「写実」の名のとおり、見たものを見たままに描くというのが特徴です。

 印象派以前の19世紀フランスにおいては、アングル等の新古典派ドラクロワ率いるロマン派の対立がありました。

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理想の美を追求した新古典派と現実を躍動的に描いたロマン派との、このどちらにも属さずに、自らの描きたい日常の風景を描いたのがクールベです。

普通の労働者や田舎の日常風景等、官展の美の基準から離れた絵を描いていた彼は、何度も官展に落選します。

自信作であった「画家のアトリエ」が落選した際は、会場の隣の小屋で、西洋絵画史上初の個展を開催します。客の入りはさっぱりでしたが、ドラクロワも個展を訪れ、作品を賛辞したそうです。

それでは、作品を見ていきましょう。

オルナンの埋葬

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こちらは1849年~1850年頃に描かれた作品で、田舎の農民の葬式を描いた作品です。聖書の一場面を描くでもなく、英雄もいない。田舎の日常にも関わらず、クールベは七メートルの大作に仕立てあげました。

大作には、それに相応しい重厚なテーマが必要でしたが、それに対しての批判も込められているのでしょう。クールベは、「これはロマン主義の埋葬である」という言葉を残しています。

出会い、こんにちはクールベさん

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1854年に描かれたこの作品は、作者本人がパトロンのブリュイアスとその召使いに出会い、挨拶するシーンを描いています。

特筆すべきは、作者が偉そうにしている点です。パトロンは直立不動で左手を広げ、友好と尊敬の意を表していますが、クールベは踏ん反り返った仏頂面です。

さらに、作品の題名が「こんにちは、クールベさん」です。本来は、絵画を買う立場であるパトロンに敬意を払って「こんにちは、ブリュイアスさん」にすべきところだと思ってしまいます。

因みに、サブタイトルは「天才に経緯を捧げる富」だそうです、、笑。

事実、クールベは大層な自信家で、自分で執筆した自伝に「絵を始めた最初の時期から、我が国の数々の美術館にある最高の作品と肩を並べる作品を描いた」と記述しています。

 また、「私は見えるものしか描かない。天使を描いて欲しかったら、天使を連れてきてほしい。」といった名言でも知られています。

非常に強気な画家だったのでしょう。

画家のアトリエ

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1855年に描かれたこの作品は、前述した個展を行うきっかけになった作品です。サブタイトルは長く、「私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意」です。

絵の中央が制作をするクールベその人で、右側に彼の支持者、左側に市民の人々をそれぞれ描いています。

絵の右側には、クールベの制作を眺めるブルジョワ市民の姿があり、右端の本を読む人はボードレールです。パトロンブリュイアスも描かれており、彼の友人や支援者等の、人間関係を表しています。

一方、左側では「寓意」のタイトルが示すように、髑髏を載せた新聞はジャーナリズムの衰退を表し(当時の新聞がナポレオン3世の広報誌となったことへの批判)、生地を売る商人は商業活動を表しています。また、その周囲には農民や失業者、端には神父がいます。これは彼が絵のモデルにしていた名も無き人々を表しています。

つまりこの絵は、クールベが今まで見てきた興味関心を1枚のキャンバスに詰め込んだ、写実派絵画の集大成と言えます。

 クールベは個展の目録に、「私が生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する」という言葉が記載しており、こちらは後にレアリスム*1宣言と呼ばれます。

題材を聖書や歴史に頼らず、視覚を頼りに対象を描く写実主義は、マネを始めとする印象派に大きな影響を与えました。

*1:リアリズムのフランス語読み

【西洋絵画】ドラクロワ-ロマンを求める情熱の画家

先日は、アングルを紹介しましたので、今回はアングルのライバルとして紹介されることの多い、ドラクロワを取り上げます。

アングルは新古典派主義に属します。新古典派主義は古代ギリシャ・ローマ時代の美を理想とする立場です。これまでも評価されてきたこれらの時代の美(理想美)を、冷静に追求していきます。

躍動感のあまりない固定的な構図や滑らかな陰影が作品の特徴です。

 

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 これに対し、ドラクロワロマン主義です。こちらは、新しい美のあり方を模索していく立場です。言わば、情熱的に「美」を追い求めます。理想美を追求するだけでは先人の巨匠たちを超えることはできません。他者と違った作品を作り、個人がそれぞれ持つ美の基準(個性美)に訴えかける作品を作っていきます。

ロマン主義では、当時の戦争等の大事件を、リアルタイムに描いた時事画や、それに伴う悲惨な現実も描いています。

こちらは、躍動感ある構図や荒々しいタッチが特徴です。ドラクロワの他に、ゴヤジェリコーがロマン派に属します。

前置きが長くなりましたが、ドラクロワを紹介していきます。

経歴

ドラクロワ(1798年~1863年)はパリ近郊に生まれます。外交官の裕福な家に生まれたとされていますが、本当の父はタレーランという説が有力です。*1

ルーベンスの荒々しいタッチや、ヴェネツィア派(ジョルジョーネやティツィアーノらが有名)の色彩豊かな画風に影響を受けます。

1832年に、七月革命後のブルボン復古王政のもと、モロッコ使節団に同行します。当時はまだ写真がなかったため、記録係として画家が同行するのが習わしでした。

1838年にはブルボン宮殿図書館や、ヴェルサイユ宮殿の装飾を政府から依頼されます。

1863年に65歳で死去します。

民衆を導く自由の女神

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ドラクロワと言えば、これ!的な作品です。こちらは1830年に描かれました。フランス革命を描いたように思われますが、実は違います。(私も勘違いしていました。)

世界史が好きな方なら制作年でピンと来たかもしれませんが、七月革命を描いた作品です。

七月革命フランス革命によりブルボン王家が倒れた後、ナポレオン失脚後に再度ブルボン家が王権を握ったことに反発する革命です。1830年に起こりました。

この一大事件をドラクロワは同年に描いています。自由を求める民衆の躍動感が、ひしひしと伝わってきます。

中央にフランス国旗を持って乳を出している女性は、人間ではなく「自由」を擬人化した存在です。女性が被っている帽子はフリジア帽と呼ばれ、自由を象徴するアイテムです。(古代ローマで解放された奴隷に、フリジア帽を与えられたことが由来だそうです。)

また、女性と倒れている人とをそれぞれ結ぶと三角形の形になります。これは躍動感を演出するピラミッド型の構図で、バロック絵画でも多用されています。

因みに、シルクハットを被る紳士は、ドラクロワ本人と言われています。彼自身もブルボン家復権に対しての怒りを表現したのでしょうか。

タレーランはブルボン王政を復活させましたから、本当に父がタレーランとするなら、父に対して反対したことになります。

「キオス島の虐殺」

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こちらは1824年に描かれた作品で、同年代に発生したギリシャ独立戦争を描いた作品です。タイトルは「死か奴隷かを待つギリシャ人の家族」と続き、戦争の悲惨さを表しています。*2

写真がなかったこの時代、ギリシャ人の無残な様子を描いたこの絵画は、戦争写真のようなジャーナリズム的な意味合いもあり、ギリシャ独立を支援する世論の形成にも一役買ったのではないかと思います。ギリシャ1830年に独立が決定しました。

絵具が見えるほどの荒々しいタッチや、悲惨な事件を題材にしたことに対して当時の美術界は批判し、「絵画の虐殺」と揶揄したそうです。

「アルジェの女たち」

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1834年に描かれたこの作品は、モロッコ使節時のデッサンを基に描きました。美麗な服装や装飾品を身に付けるオリエンタルな女性の様子だけでなく、水煙草、絨毯、タイルやクッション等、当時の生活様式も伺えます。

アングルもオリエンタルな女性を描きましたが、その画風の違いに驚きます。

アングル「トルコ風呂」

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アングルと並ぶ巨匠でありながら、ドラクロワのアカデミーへの入会はなんと1857年で、死去の5年前です。しかも、アングルは最後まで入会を反対していたそうで、対立の根が深そうです。

しかしながら、当時の人々がリアルで臨場感の溢れるロマン派の絵画を求め始めていた世論もあり、ドラクロワはアカデミーへ入会します。

また、アカデミーからは嫌われていましたが、政府のモロッコ外遊には随行し、政府関係の仕事はよく受けていたので、政界と美術界とはそれぞれ権力が分立していたのだと個人的に思いました。

それでは本日はこの辺までと致します。お読みいただき、ありがとうございました。

*1:タレーランはフランスの政治家でウィーン会議に出席するほどの実力者

*2:ギリシャ独立戦争は、ギリシャオスマントルコからの独立を求めた戦争です。

【西洋絵画】アングル-19世紀フランス美術界の最高権威

本日はアングルとその代表作を紹介します。

 

アングル(1780年~1867年)はフランスの画家です。新古典主義に属します。

新古典主義と言えば、伝統や格式を重んじ、印象派のアンチテーゼとして絵画界に君臨していました。(因みに、ドラクロワ率いるロマン主義新古典主義と対立していました。)

宗教画や歴史画等の、芸術アカデミーや官展が認める古典的な作品を是とする価値観に他の画家達は反発していたのです。

因みに、梶井基次郎の「檸檬」の中に、アングルの名前が出てきます。(主人公は檸檬を手に丸善へ入店したが、好きだったアングルの画集が持てなくなったというシーン。)

西洋絵画が好きになる前に、アングルという響きが心に残っていたのですが、どうやらこれのようです。

経歴

フランスに生まれ、新古典主義の泰斗であるダヴィッドに弟子入りします。

1806年~1824年まで長期のイタリア滞在を行います。そこでラファエロの絵に感動し、ラファエロに傾倒していきます。

それまではぱっとしなかったアングルですが、イタリアからの帰国後に「ルイ13世の誓願」を発表し、絶賛されます。

1825年に美術アカデミー会員に、1833年に国立美術学校の校長となります。これはフランス絵画界の最高権威です。

そして1867年に死去します。

それでは、作品を見ていきましょう。

「グランド・オダリスク

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1814年に34歳で制作されたこの絵には、新古典主義の特徴である、滑らかな肌と曲線が描かれています。また、婦人の表情はラファエロの絵を彷彿とさせます。

ターバンや孔雀の扇子はナポレオンのエジプト遠征によるもので、多くの東方の文物がフランスに流入したようです。

曲線や表情がとても美しく、素晴らしい絵に思えます。しかし、当時の人々からは、デフォルメと言わんばかりの背中の長さや腕の長さが、多くの批判を受けたようです。

ルイ13世の誓願」

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イタリアから帰った年と同年の1824年にこの絵を発表したところ、多くの賞賛を浴び、有名画家の道を歩んでいきます。

絵の内容はルイ13世聖母マリアとイエスに誓願するという、タイトルそのままです。

特筆すべき点は、ラファエロの「システィーナの聖母」と構図、表情、光の当たり方等が酷似しているということです。

アングルにしてみれば、ダヴィッドに師事したけど上手くいかなかったから、違う道を模索した結果の大当たりというところでしょうか。

アングルがイタリアに着いたとき、「私は騙されていた」という言葉を残しているそうです。

「システィーナの聖母」

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1513年~1514年頃に制作された、ラファエロ最後の大作です。ラファエロと言えば、「聖母の画家」という位、聖母を描いた絵が人々に愛されています。優しく慈愛に満ちながらも威厳のあるこの聖母は、後世の画家の規範となりました。

 「トルコ風呂」

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1862年に描かれたこの絵はトルコの共同浴場を大勢の裸婦で埋め尽くした、アングル晩年の大作です。

この絵も女性たちが不自然に歪んでいて、デフォルメを思わせます。「グランド・オダリスク」で批判を受けた頃と、作品の形態が変わっていません。

アングルは82歳で「トルコ風呂」を描きました。ここに至るまでに、官展が好む多くの傑作を描いて、フランス絵画界の権威まで上り詰めました。周囲にアングルに批判できるような人はいません。

アングルは自分が思う理想の女性像を頑迷なまでに貫きとおしたのです。凄まじい執念と美への固執だと思います。

逆に、ここまでの気概がなければ、トップまで上り詰めないのかもしれません。

それでは今日はここまでとします。

お読みいただき、ありがとうございました。

【西洋絵画】ゴーギャン-南国の楽園に救いを求めた、破滅的人生

本日は、ゴーギャンと彼の代表作の紹介です。

サマセット・モームの「月と六ペンス」では、主人公の芸術家が安定した生活を捨てて芸術へ傾倒していく破滅的人生が書かれています。この主人公のモデルはゴーギャンだと言われています。

まさに、ゴーギャン(1848年~1903年)の人生も芸術に取り憑かれた人生でした。

ゴーギャンと言えば、タヒチに移住してからの作品が有名ですが、そこに至るまでの紆余曲折も書いた方が深みが出ます。少々長いですが、お付き合いください。

生涯

ゴーギャンはパリに生まれますが、生後すぐに家族でペルーへ亡命しています。

フランス帰国後は17歳で船員として働いた後、株式仲買人の仕事に就きます。

その2年後に結婚し、5人の子供を設けます。

彼は日曜画家として、働きながら絵を描いていました。このまま普通に働いていれば、家族に恵まれた安定した生活を送れたことでしょう。

しかし彼は1883年(35歳の年)に会社を辞め、画家としての人生を歩み始めます。

収入が安定しなかったために、その翌年には早速、妻が子供を連れてデンマークの実家へ戻っています。

ゴーギャン1888年ゴッホとアルルにて共同生活をしますが、僅か2ヶ月で「耳切り事件」が起こり、共同生活を解消。

ブルターニュのポン・タヴェン村に移り、制作を続けます。代表作に「黄色いキリスト」という作品がありますが、このモデルとなった黄色いキリスト像は、村の教会に実在します。

そして遂に、1891年、タヒチへと移住します。移住の理由は西洋文明に疲れたためや、安い生活費のためと言われています。絵画が評価されていなかったゴーギャンにとっては、起死回生を賭けての移住だったと思います。

1893年に一時帰国し、個展を開催しますが、結果は芳しくありませんでした。

失望したゴーギャンは1895年に再びタヒチに渡ります。

貧困や病気に悩みながら、孤独に制作を続け、1901年にタヒチよりさらに鄙びたマルキーズ諸島に移り、1903年に54歳で没します。

彼が評価されたのは死後でした。その自由な色彩表現はマティスらのフォービスムに影響を与えたと言われています。

生涯についての記載が長くなってしましましたが、絵画の紹介に移ります。

「イア・オラナ・マリア」

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1891年に制作された、タヒチ時代の代表的絵画です。絵の特徴としては、エキゾチックな現地の人を描きながらも、キリスト教的意味もばっちり込めた所が挙げられます。

画面右の、子を肩に載せた女性に対して、女性二人が手を合わせて祈っています。

子と女性の頭上には光の輪があることから、それぞれイエスとマリアと分かります。

画面左のピンクのパラオの女性には青い翼が生えていますから、こちらは天使です。

さらに、絵の題名の「イオ・アラナ・マリア」とはタヒチの言葉で、「マリア、私はあなたを礼拝する(アヴェ・マリア)」ということから、この絵は聖母子に祈るキリスト教的絵画と言えます。

ゴーギャンは一旗揚げるためにタヒチへ来たわけですから、ヨーロッパの人を驚かせるために生まれたのが、平面的で鮮やかな色彩で異国情緒を描きながらも、タヒチ女性をマリアに置き換えた斬新な絵画でした。

当時は人々が新古典主義から脱却し、印象派がようやく認められた時代です。

ゴーギャンの絵は時代を先取りしすぎていて、評価されませんでした。

「アリスカンの並木路、アルル」

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時代が前後して申し訳ないですが、これは1888年ゴッホとの共同生活時代に描かれた作品です。

こちらは優しい雰囲気と軽いタッチで描かれていて、印象派の影響を少なからず受けていたのではないかと思わされます。

しかしゴーギャン印象派絵画に対して、単に外の世界を描いているだけで、絵に意味合いがないという不満を持っていました。

ゴッホと喧嘩別れしてから、ブルターニュへ滞在しますが、そこで制作された作品から既に、眼前の風景と宗教的意味をミックスするという、印象派とは一線を画す絵画を目指していたことが分かります。

「黄色いキリスト」

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1889年に描かれたこの作品では、磔刑の黄色いキリストにブルターニュ地方の民族衣装を纏った女性が跪いています。農村の風景や農民とキリストとを同じキャンパス内で描いています。

この絵のように、見える世界と見えない世界を絵画の中で統合した作品を、綜合主義と言い、ゴーギャンが第一人者です。

「イア・オラナ・マリア」はこの絵画の延長線上に制作されたと言えます。

また、ブルターニュ時代に制作された絵画の特徴がもう1つあります。

ブルターニュの海岸」

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 こちらも1889年に描かれた風景画ですが、「黄色いキリスト」と共通する特徴として平面的に絵具を塗り、それが境界の役目も果たしています。このような表現をクロワゾリズムと言います。

そして、ゴーギャンの集大成とも言えるのが次の絵画です。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

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 これは1897年~1898年の二度目のタヒチ滞在で制作されたものです。作者自身で「これまでで最も優れており、これからもこれ以上のものは書くことはできない」とまで述べています。

当時のゴーギャンは困窮や病気に苦しんでおり、友人に宛てた手紙の中で、「死ぬつもりであったが、死ぬ前に大作を描こうと思う」と書いています。

また、娘の死も重なり、本作完成後は服毒自殺を考えていたようです。

これは、人生の全てを賭して描いた超大作なのです。

画面の右から左はそれぞれ時間の経過を表していて、若年期~青年期~更年期がそれぞれ描かれています。

旧約聖書の禁断の果実(林檎)を食べる場面を思わせる描写や、青白い像はポリネシアの月神ヒナを表しており、古今東西の様々なモチーフを組み合わせて描いています。

 おわりに

既存の価値観を否定し、自身の信じる芸術を表現したゴーギャンは、時代を先取りしていたために、当時の人から評価されることは殆どできませんでした。

しかし、死後の評価は私が言うまでもなく圧倒的なものがあります。

他の画家とは一線を画すその絵は、私たちは人目見ただけでゴーギャンの絵だと分かります。このような画家は数少ないと私は思います。

他者に伍することなく、人生の全てを芸術に捧げたゴーギャン

私はゴーギャンについて調べるまで、タヒチに移住してスローライフを満喫したお気楽な画家だとばかり思っていました。

しかしながら実際の、温かい家族を捨て、孤独や困窮に苛まれながらも南国に救いを求め、制作を続けたその人生は壮絶なものがあります。

今後、美術館等で彼の絵を見る際は、画家の苦悩を想像することで絵の印象も変わってくるのではないでしょうか。

【映画紹介】歩いても 歩いても-家族の団らんに潜むエゴ

歩いても 歩いても(是枝裕和監督 2008年 日本)の紹介です。

キャッチコピーは「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」

長男の15周忌で集まった横山家の家族団らんと、その裏にある感情の機微を描いたホームドラマです。

なんと、阿部寛夏川結衣の、「結婚できない男」で共演した2人が夫婦役で出ています!

勿論キャラ設定は違いますが、ファンとしては嬉しいものです。

 

トーリー

夏のある日、良多(阿部寛)は再婚した妻ゆかり(夏川結衣)、連れ子のあつしと神奈川県の三浦海岸近くの実家に帰省した。

15年前に死んだ長男、純平の命日を忍ぶために、姉(you)夫婦を含む家族で集まったのである。

失業していたことを隠していた良多は、両親に会うことが苦痛であった。

感想

  • 会話の妙

大きな事件や場面の変化もなく、殆どが家の中での撮影です。家族が集まった何気ない日常を切り取る映画なのですが、会話の間や言葉がとてもリアルで、引き込まれます。

特に、樹木希林とyouのやり取りは実の親子以上に息がぴったりで、とんでもない演技力と脚本だなと思います。

  • 美味しそうな食べ物

食べ物が美味しそうなところもこの映画の魅力です。樹木希林とyouが料理を作っているシーンで始まります。

にんじんの皮を包丁で削ぐ音、豚の角煮をことこと煮ている画。そしてとうもろこしのかき揚げを揚げている音。料理の手際のよさと美味しそうな音が食欲をそそります。

私はこの映画でとうもろこしのかき揚げを知り、それがとても美味しそうだったため、居酒屋等にあると、必ずと言っていいほど注文してしまいます。

監督は、著書の中で、「食事シーンでは食べることよりも準備と片付けが大事だと言うことは向田邦子さんのホームドラマで学んだ」と述べています。

それだけ、料理シーンには力を入れたのでしょう。

  • 登場人物の本心

表面上は和やかな横山家ですが、裏には秘めた思いがあります。

良多の父(原田芳雄)は小さな町病院を開業していましたが、高齢となり後継ぎがいないために廃業しています。廃業を後悔しているのか、孫のあつしに医者はいい職業だということをこっそり吹き込みます。(血は繋がっていないですが、聡明なあつしに期待しているのでしょう。誰に対しても気難しいですが、あつしには優しいです。)

それを聞いた良多は余計なことを吹き込むのはやめてくれと一蹴します。良多と父もその昔、進路で揉めたのでしょう。

また、樹木希林は良多の結婚相手が初婚でないことに不満気です。娘のyouに愚痴をこぼしたり、ゆかりに子供は作らない方がいいと言ったり、良多のパジャマは用意しても、ゆかりの分は用意していなかったりします。

極めつけは、純平に線香をあげに来た青年を、(青年が海で溺れているのを助けたために、純平は死んでしまいます。)来年から呼ぶのをやめたらと提案する良多に対して、樹木希林が言う台詞です。

「10年やそこらで忘れてもらっちゃ困る。憎む相手がいないだけ辛い。年に1度くらいは辛い思いをしてもらっても罰は当たらない」と本心を吐露します。

全体を通して和やかですが、このシーンでは緊張が走ります。穏やかな日常の中にも人間の怖さが垣間見えるシーンです。

優しく世話好きに見えても、腹には秘めた思いがあるのです。

  • 不器用な父と子

良多と父の恭平は互いに素っ気ないです。良多は父に対して敬語を使っています。優秀な兄と比べられたことや、医者にならなかったことでの確執があるのでしょう。

しかし、そこは親子。不器用ながらに、父は息子を心配します。息子に仕事がうまくいってるか心配の言葉を掛けたり、母さんが心配するからたまには電話してこいと伝えます。(実際は自分も心配で、息子と話したいのでしょう。)

良多は久しぶりに帰った家の風呂のタイルが剥がれてきていることや、風呂場に手すりが付けられていることに時間の流れを感じます。

また、向かいの老人の具合が悪くなり、家族は医者であった恭平に電話してきますが、今は引退した身であるため救急車を呼ぶよう伝えます。

救急車が来てから、恭平は家を出て容態を救急隊員に聞きますが、やじ馬の老人と思われて相手にされません。

この時の恭平の様子を良多はこっそり見てしまいます。偉そうに振舞っていた父の淋しそうな背中を見た良多もまた、悲しげな表情をします。

こういう何気ないカットや演出での表現が是枝監督は絶妙です。

 

映画のタイトルはいしだあゆみが歌う「ブルーライトヨコハマ」のサビの一節です。邦楽の歌詞をタイトルに使うのは2016年に公開された「海よりもまだ深く」でも同様で、こちらはテレサ・テンの「別れの予感」からとっています。

因みに、この映画でも主演は阿部寛で主人公の名前は良多です。

小津安二郎のように、同じ俳優で同じ役名ということを好んでいるのでしょう。

「海よりもまだ深く」も家族を描いたホームドラマで、「歩いても 歩いても」が好きな方にはこちらもおすすめです。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

【西洋絵画】ロートレック-パリの夜に生きる女性を描いた画家

本日は、ロートレックとその代表作の紹介です。

 

ロートレック(1864~1901)はフランスの画家で、後期印象派に分類されます。

フランス最古の貴族の出身ですが、血族婚を繰り返したために骨が形成不全となり、少年期の骨折をきっかけに足の成長が止まってしまいます。

画家を志してパリに出てきてからは、モンマルトルで酒に耽り歓楽街に入り浸るようになります。

娼婦やダンサーといった夜の女性と交流し、彼女たちを描いた作品が多く見られます。

それでは作品を紹介していきましょう。

 

ムーラン・ルージュのラ・グリュ」

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 1889年のパリ万博年、エッフェル塔と同じ年に完成したムーラン・ルージュを抜きにして、ロートレックを語ることはできません。

ムーラン・ルージュ(フランス語で「赤い風車」)は、モンマルトル最大のキャバレーです。

※モンマルトルはパリ北部にあり、パリで1番高い丘です。ムーラン・ルージュはじめ多くのキャバレーやミュージックホールが集中しており、世界でも屈指の歓楽街でした。

また、ピサロピカソモディリアーニ等、多くの芸術家が住んでいた芸術の街でもありました。

ロートレックは常連として入り浸っていた1891年のある日、興行師から宣伝用のポスターを依頼されます。

ロートレックに依頼する以前は、ジュール・シェレという版画家によって制作されていました。

シェレはフランス随一の版画家であり、その甘く華やかな画風には多くのファンがいました。

シェレ「ムーラン・ルージュの舞踏会」

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 ポスターを描いたことがなかったロートレックは、試行錯誤を重ねるなかで、日本の浮世絵に発想を得て、シェレとは全く異なったポスターを制作します。

平面的な色彩と遠近法を無視した、大胆な画面構成により、ポスターは当時の人々に絶賛されます。

因みに、中央で足を高く上げている女性は「ラ・グリュ(大食いの意)」と呼ばれた人気の踊り子であり、右の男は「骨なしヴァランタン」と呼ばれ、柔軟な踊りで人気を博したそうです。

ロートレックムーラン・ルージュだけで30点以上の作品を描きました。

また、こんな風俗画も残しています。

 

「ムーラン通りの医療検査」

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 こちらは1894年に制作され、娼婦が定期検診を受けている様子を描いたものです。

明るい色彩の背景と対比するかのように、女性たちの表情は険しく、若干の憂いを帯びています。

病気があるかもしれないことへの不安感なのか、検診を受けることに対する後ろめたさなのか。

その一瞬の表情をロートレックは鮮やかなタッチで描いています。

 

パリの夜の世界に生きる、孤独な女性を描いたロートレック

貴族という身分を捨てて、自らも病気を抱えていたからこそ、彼女たちの弱さを理解し、彼女たちを優しく見つめるかのような絵画が描けたのだと思います。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

【西洋絵画】カラヴァッジオ-バロック様式の先駆者は殺人犯

本日はカラヴァッジオと彼の代表的な絵の紹介です。

 

カラヴァッジオ(1571年~1610年)はイタリアの画家で、バロック様式の先駆けの画家と言われています。

バロック様式とは主に17世紀に流行した画風で、劇的な明暗や肉体を豊満に描くことが特徴です。カラヴァッジオの他にはルーベンスレンブラントやベラスケスが有名ですが、彼らはカラヴァッジオの影響を受けたとも言われています。

カラヴァッジオは早熟で無頼な画家です。20代前半から才能を発揮し、ローマで人気画家となります。

しかし、稼いだお金をお酒や賭博につぎ込み、喧嘩も絶えなかったそうです。しまいには、35歳の時に喧嘩相手を殺してしまい、指名手配の身となった彼はイタリア各地を放浪します。

そして、38歳という若さでマラリアにより亡くなります。

短い人生の中にも、数多くの世界的な傑作を残しています。

早速、見ていきましょう。

 

バッカス

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 カラヴァッジオが25歳頃に描いた作品です。バッカスとはギリシャ神話における酒の神様で、ギリシャ語でディオニュソスという名前でも呼ばれます。この作品は、カラヴァッジオの初期の代表作とも呼ばれます。

見所は、少年に見立てて描いたバッカスの官能的な表情です。赤い頬と色気のある厚い唇、潤んだ瞳は快楽を誘っているようにも見えます。

一方で、グラスを持つバッカスの手は汚れています。これは快楽の代償を暗示しています。

お酒を飲んで気分は高揚するものの、二日酔いで苦しんだり、ときには死亡してしまう「お酒」の本質を表していると言えるでしょう。

酒に溺れたカラヴァッジオだからこそ描けた作品と言えるのではないでしょうか。

また、果物は食べごろの物もあれば、虫食いや傷物もあります。これは「生けるものは死ぬ」という、人生の儚さを表していると考えられています。

 

「果物籠」

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こちらも、「バッカス」とほぼ同年代に描かれた絵画です。特筆すべき点として、イタリアで初めての静物画だということです。

当時の絵画にはヒエラルキーがあり、トップは宗教画、最下層が静物画でした。

しかしカラヴァッジオヒエラルキーを気にせず、絵画を同質に捉えて描きたいものを描いていきます。「マリアを描いた絵も、花を描いた絵も同じ技術が必要だと思う」と彼は言ったとされています。

こちらの果物も虫食いのものがあり、儚さを表しています。

因みに、静物画に儚さの寓意を持たせたものを「ヴァニタス画」と言います。

 

「聖マタイの召命」

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 こちらは1600年に描かれた作品で、徹底した明暗表現から生じる劇的瞬間に、バロック様式の萌芽を見ることができます。

この作品の特徴は、イエスが収税人マタイを弟子に加えるという、聖なる場面を世俗画的に(日常の一場面のように)描いたことです。

右端で堂々と指を指している人物がイエスです。髭こそ生やしていますが(髭はイエスを描くときの象徴)、一般人のように描かれています。

従来まで、イエスを見る髭の男がマタイだと考えられていましたが、近年では左端のうずくまって金を触っている人物がマタイだと考えられています。

うずくまる男を髭の男が指している点(彼が「マタイです」と指しているように見える)や、イエスの目線の先がうずくまる男にあるように見える点が理由のようです。

 

トラブルが絶えず、殺人まで犯したカラヴァッジオですが、ガリレオ・ガリレイダ・ヴィンチミケランジェロティツィアーノ等と並んでイタリアのリラ紙幣にも選ばれるほど、イタリアでは功績が評価されています。(紙幣にすることに賛否両論はあったようですが。)

バロックの「光と闇」を自らの人生でも体現したカラヴァッジオは、その振れ幅の大きさから、唯一無二の画家と言えるでしょう。