ambfダイアリー

アラサー男のアウトプット。Arts,Movie,Book,Foodでambfです。

【雑記】お酒の飲めない私が下戸の悩みと願いを挙げてみた

唐突ですが、私はお酒が殆ど飲めません。

全く飲めない訳ではないですが、概ね生中1杯で酔う程度の耐性です。ビールを飲んで美味しいと思うのは最初の一口だけです。スーパー等でお酒を買うことも友人の来訪等を除いては、まずありません。

そんな私が、下戸ならではの悩みと、こうなったらいいなという願望を書きました。

悩み

①飲み会が楽しくない

楽しくない理由は主に2つあります。

第一に、周りの雰囲気に馴染めないことです。周りが顔を赤らめて楽しそうにしている中で、どうにもお酒が入っていない私は溶け込みづらいです。ドリンクを注文するときも、アルコールの名前が飛び交う中でノンアルコールを頼むだけで場の空気が変わるのが分かります。お酒を強要されることはありませんし、話していて楽しいときもあるのですが、どうにも浮いている感じがします。

以前アメトークで「お酒飲めない芸人」の回があったときは、飲み会に参加しても、しらふだと信用されないことやノンアルコールを頼むタイミングを伺っているという話に非常に共感しました。

第二に、金銭的負担が不公平な点です。飲み放題だとしても、こちらは生中とコーラ位しか頼んでいないし、海老せん等の安めな料理に対して3千円~4千円程度払うことが勿体無く思えてきます。ましてや飲み放題ではないときは、更に上の金額にいくことがあり、もやもやします。

3千円あれば、ステーキや鰻等の大抵の美味しいものは食べられます。そちらに遣う方が有意義に感じられてしまいます。例えば、気の合う友人と美味しいとんかつを食べて食後に喫茶店でケーキとコーヒーを頼む方が遥かに満足度が高く感じます。

逆に、飲み会のいい面としては相手の人となりを知れることで仕事のコミュニケーションが活発になる点が挙げられます。その点では、飲み会の費用は単に飲食費用だけでなく、仕事の潤滑費用として考えられなくもありません。

そう信じて入社時はなるべく参加してきましたが、上記の2つの理由が次第に勝ってきてしまい、2年目頃から節目の飲み会以外は足を運ばなくなりました。

それでも仕事への影響は殆どありませんでしたので、この悩みは概ね私の中で折り合いが付いています。問題は次の悩みです。

②お酒ありきの飲食店に行きづらい

こちらの悩みの方が深刻です。私は食べることが好きなのですが、食べ物自体は好きでもお酒が飲めないために足を運べない飲食店が多々あります。

例えば焼き鳥やおでん等のお店やちょっといいフレンチやイタリアン等の、お酒ありきの飲食店です。

普通の居酒屋等でしたら、少量のお酒とノンアルコールを注文して肩身を狭くして飲んでいるのですが、焼き鳥やおでん屋では店が狭く大将との距離が近く、周囲の客もお酒と一緒に楽しんでいることを思うと、どう考えても歓迎されない客だと思い、気まずくてお店に入れません。

惣菜屋等でテイクアウトすればいいのではと考えたこともありますが、できればお店の煙や匂いが立ち込める活気のある雰囲気で食べたいなというのが本音です。

いいフレンチ等もワインを勧められることが苦痛で入れずにいます。できれば、飲めない体質であることを伝えて終始炭酸水で通したいのですが、どうにもみみっちい客だと思われそうで、入れずにいます。1回格好つけてワインを2,3杯飲みましたが気分が優れず、料理の味も分からなくなってしまったために、できれば料理を味わうためにも終始ノンアルコールで通したいです。(本来は、ワインと料理が相乗効果を生むのでしょうが。)

お酒の飲める友人等と入ってしまえばいいではないかと思いますが、どうにも店員からの視線が気になって入れずにいます。私は小さい男です。

この2つの悩みを解決できるための個人的な願いが以下となります。これが実現されたら非常に嬉しく思います。

願い

①会計に傾斜を付けられるアプリの普及

各人が飲んだ分だけ支払えるアプリやタッチパネルでの注文方法が浸透すればいいなと思います。お酒が飲めない身としては、できれば各自が飲んだ分は応分で支払ってほしいのが本音です。傾斜を付けてくれる時もありますが、逆に全くの割り勘の時もあります。割り勘になってしまう理由の一つに、誰がどれ位飲んだかを金額に反映させることが困難なことが考えられます。

なので、煩雑にならないように傾斜をシステム化できればいいと思います。誰が何を注文したかをスマホのアプリやタッチパネルと連動させることで、会計時の負担金額が明確化されます。現在はスマホでの個人間の送金が普及していますので、一人ひとりの支払額が異なっても支払は容易でしょう。

飲み放題でも、アプリ等と連動させることで、お酒を1杯程度しか飲まない人への割引が実現できると思います。例えば、アルコール一杯とソフトドリンクのみの人はコース料金から千円引といった具合です。そうなると、飲まない人でも飲み会に参加したくなり、居酒屋への来客増加に繋がるのではないかと思います。

②下戸でも入りやすい飲食店の普及

下戸でも堂々と入れる飲食店があればいいなと思います。

まずは下戸専用の飲食店はどうでしょうか。下戸はお酒を飲まない分、滞在時間が短いため、回転率は早いです。焼き鳥等はご飯と食べても美味しいので、定食屋さんみたいな形でも案外普及するのではないかと思います。

下戸専用とは言わないまでも、「下戸歓迎」や「食事処としての利用歓迎」等の看板やマークがあると非常に入りやすいです。下戸は売上に貢献しない肩身の狭さをよく分かっているため、食べたらすぐに退店します。なので、せめて入りやすいようにしていただけると個人的には嬉しいです。

ですが、それだと売上が減ってしまうとお思いの方は、下戸チャージとして特別料金を徴収するのも一つの手です。料金を払っているという自覚があれば、下戸でも堂々とお店にいやすくなります。

 以上、下戸がもう少し生きやすい世の中になればいいなと思い、私の悩みと願望をつらつらと書きました。

美味しい焼き鳥を堂々と食べたいです。

共感してくださる方は、シェアいただけると大変嬉しいです。

【書評】経済成長という呪い

経済成長という呪い(ダニエルコーエン、東洋経済)の書評です。著者はチュニジア生まれのフランスを代表する経済学者で、本書は2015年にフランスで出版されたものです。

 あらすじ

20世紀では産業革命による物質面の豊かさが人々に希望を与えてきました。しかし、21世紀に入り、経済成長が鈍化していく中で人々はどのように希望を見出せばいいのか。

前半から中半部分では人類史の観点から、人間誕生から現在までの経済成長についてを説明し、後半では著者の解決策を提示しています。

まず、前半から中半をかいつまんで説明します。産業革命の工業社会を経て、21世紀はデジタル革命により、スマートフォンタブレットが普及するポスト工業社会となりました。しかし、デジタル革命では産業革命の時のような経済成長は達成されませんでした。

著者によるとアメリカは過去30年間、国民の90%の購買力は向上せず、ヨーロッパでは同時期の一人あたりの所得増加率は3%から1.5%、そして0.5%に低下したそうです。

著者は、物質的な充足を絶えず満たすことで、裕福になれるという願い(経済成長の呪い)に変わる、新たな価値観を人々が手に入れることで、希望溢れる社会を作っていけると指摘します。

後半部分では、その新たな価値観をデンマークに求めるべきだという主張が展開されます。デンマークはポスト工業社会へうまく移行した例として、しばしば紹介されるそうです。

デンマークでは国民の幸福度が高いです。その理由として著者は、国民が自分たち国民及び国家を信頼し、ボランティア等が盛んで、労働さえも幸福の源となっていることを挙げています。なお、国家を信頼する理由は手厚い社会保障です。

すなわち、デンマーク社会のように、仕事や社会生活等で自身の役割を見出し、欲望を昇華させることができれば、それが物質的な充足に変わる新しい希望になると著者は指摘します。

感想

①経済史を復習できる

中盤まではざっくりとした経済史の説明になっているため、経済史を復習できます。特に、17世紀から18世紀にかけての科学や啓蒙思想の普及により、世界を神ではなく理性により知覚することが、産業革命へと繋がるという一連の説明は、大まかな流れを掴むうえで分かりやすいです。ペストによる人口減少やプロテスタントによる富の蓄積にも触れながら、ヨーロッパの経済成長を俯瞰的に説明しています。

私が今回「なるほど」と思ったのは、なぜ近代はヨーロッパが経済の中心となったかという説明です。歴史を変えた三大発明と言われる火薬、羅針盤活版印刷は全て中国で産まれた発明であり、11世紀~12世紀の宋はローマよりも栄えていたが、13世紀のモンゴル略奪と16世紀のイヴァン4世がロシアのステップ帯の交通路を遮断したために、中国は復興できなかったと著者は述べています。さらに、モンゴルの侵略により、中国の政治及び経済の中心は南部に移った(明)が、産業革命の原動力となった石炭は中国北部に位置していたことも、中国での産業革命を妨げたと述べています。

②フランスの国民性を知れる

著者はデンマークと対照的な存在として、フランスを挙げています。フランスは他人や国家を信頼することに対して悲観的だと述べています。ボランティア等の社会的な協力は最もしないそうです。確かに、フランスは個人主義とよく言われます。事実、フランス映画は個人の生活を描いたものが多いです。

この本はフランス人に向けて書かれた本であるため、著者はフランスの国民性や社会体制を懐疑的に考察しています。

著者はフランス国民に不信感が蔓延している理由としてヴィシー症候群や五月革命を例に出して説明しています。私はこれらの言葉を初めて知りましたが、現代フランス人の思想の根底にある、大変重要な要素だと感じました。フランスの現代史の触りとしてもこの本はお勧めできます。(後で色々と調べる必要はありますが。)

デンマークについての記載が少ない

著者はポスト工業社会の模範として、デンマークを真似るべきだと述べていますが、そのデンマークについての記述が少なかったのがやや残念ではあります。もっと文量を増やしてもよかったように感じます。

本著ではデンマークが理想と書かれていますが、以前、「英国一家、日本を食べる」の著者が書いた「限りなく完璧に近い人々」(マイケル・ブース KADOKAWA)を読んだ際には、デンマーク人は、国家の保障が手厚いために貯蓄をする習慣がなく借金が多いこと、その保障も近年は歪みが生じ始めていることが書かれていて、やはり完璧な国はないよなぁと思いました。

とはいえ、デンマークのように労働時間や通勤時間が短く、手厚い失業手当はやはり魅力的ではあります。

 

月並みではありますが、この本を読んで、デンマークに行ってみたくなりました。デンマークにて21世紀の豊かさについて、肌で感じてみたいと思います。

【映画紹介】トリュフォーの思春期-子供たちが織り成す王道のフランス映画

3ヶ月ほど放置してしまいましたが、また再開していきたいと思います。

トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー監督 1976年 フランス)の紹介です。フランスの地方都市に住む小学生たちの夏休み前の日常生活を、オムニバス形式で描きます。

沢山の子供たちが楽しそうに坂を駆け下りるOPシーンで早くも引き込まれます。色とりどりの服装の子供たちは瑞々しく、まるでドロップ飴缶のような映画です。

 ストーリー

パトリック達の通う小学校はもうすぐ夏休みで生徒は浮かれ気味。

そんな中、ジュリアンという生徒が転校してきます。ボロボロの洋服を着て、いかにもな貧困家庭の子供です。このジュリアンは新しくできた友人と映画の無賃鑑賞などの悪さをします。

その他にも、パトリックが友達のお母さんに恋をする話や、先生や先生が住むマンションの隣人たちの話など、様々な話があります。

こういった様々なエピソードで、この映画は構成されます。

感想

  • 監督について

池波正太郎が「トリュフォーは子供を撮るのがうまい」と指摘したとおり、まさに子供たちが活き活きと映されています。あどけない表情、可愛らしい表情から小憎らしい表情や憂いを帯びた表情まで。

子役はオーディションで選んだそうで、監督はとんでもない「眼」を持っているなと思います。余談ですが、トリュフォー自身の娘も出演しています。

  • ジュリアンについて

物語の根幹をなす、不良少年のジュリアンを演じた子役の演技が非常にうまいです。『スタンド・バイ・ミー』のクリスを演じたリバー・フェニックスもそうですが、不良少年の退廃感と憂いを見事に演技しています。

クリスもジュリアンも家庭環境が悪いことが不良になる原因で、根っからの悪というわけではないのですが、その辺りも悲しげな表情や仕草で完璧に表現しています。

ジュリアン役はフィリップ・ゴールドマンという子役ですが、その他の出演作品が見つかりませんでした。他の作品も観てみたかっただけに残念です。

因みに、ジュリアンという名前からはスタンダールの『赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルを思い出させますが、名前の関連性があるのか気になります。貧困階級という点では同じですが、本作品のジュリアンは野心家のような描かれ方はしていませんでした。

  • 恋愛について

ませている!率直な感想です。

若干のネタバレになりますが、パトリックは友達のお母さんへ気持ちを伝えるために、薔薇の花束を渡します。小学生ですよ笑。

また、パトリックを連れる友人は中学生の年上女性にナンパをして成功させます。2対2の計4人で映画館に入るのですが、その友人はナンパした女性にパトリックが興味がないと知るや(友人の母が好きですからね)、二人の女性の間に自分が座り、二人の肩に手を回しながら「両手に花」の状態で映画を鑑賞します。もう一度言います。小学生ですよ笑。

  • 先生について

パトリックとジュリアンの担任の先生が夏休み前のHRで生徒にメッセージを伝えます。諸事情によりクラスを離れてしまったジュリアンへの優しさと社会への希望を謳うメッセージは映画に深みを添えます。

このシーンを子供たちに見せるために、小学校のHRでこの映画が上映されたらいいなと思います。

  • 全体を通して

子供たちは色とりどりの服を着ていて、また部屋の中も鮮やかな色の小物が多く、全体的にカラフルな映画です。色彩の豊かさは『シェルブールの雨傘』、『ロシュフォールの恋人たち』、『DIVA』や『ミックマック』に近しいものがあります。鮮やかな色彩はフランス映画の特徴なのでしょう。

そして、印象的なカメラカットは物語の終盤、ジュリアンの家からズームアウトして小ぶりな紫の草花を写した所です。花の儚く健気な美しさはジュリアンを表すのでしょう。まるで詩の一場面のような美しさです。

フランス映画はお洒落というイメージがありますが、この映画も多分に漏れません。色彩鮮やかで詩的な映像とエスプリの効いた笑い、さり気ないメッセージが込められるこの映画はフランス映画の王道と言えます。

私はフランス映画が好きなのですが、このような映画を観てしまうと益々フランスにかぶれてしまいます。 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

【西洋絵画】クールベ-新古典派でもロマン派でもない、第三の道

少し更新が滞ってしまいましたが、今回はクールベ(1819年~1877年)を紹介します。

 クールベは写実派(リアリズム)に属します。「写実」の名のとおり、見たものを見たままに描くというのが特徴です。

 印象派以前の19世紀フランスにおいては、アングル等の新古典派ドラクロワ率いるロマン派の対立がありました。

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理想の美を追求した新古典派と現実を躍動的に描いたロマン派との、このどちらにも属さずに、自らの描きたい日常の風景を描いたのがクールベです。

普通の労働者や田舎の日常風景等、官展の美の基準から離れた絵を描いていた彼は、何度も官展に落選します。

自信作であった「画家のアトリエ」が落選した際は、会場の隣の小屋で、西洋絵画史上初の個展を開催します。客の入りはさっぱりでしたが、ドラクロワも個展を訪れ、作品を賛辞したそうです。

それでは、作品を見ていきましょう。

オルナンの埋葬

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こちらは1849年~1850年頃に描かれた作品で、田舎の農民の葬式を描いた作品です。聖書の一場面を描くでもなく、英雄もいない。田舎の日常にも関わらず、クールベは七メートルの大作に仕立てあげました。

大作には、それに相応しい重厚なテーマが必要でしたが、それに対しての批判も込められているのでしょう。クールベは、「これはロマン主義の埋葬である」という言葉を残しています。

出会い、こんにちはクールベさん

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1854年に描かれたこの作品は、作者本人がパトロンのブリュイアスとその召使いに出会い、挨拶するシーンを描いています。

特筆すべきは、作者が偉そうにしている点です。パトロンは直立不動で左手を広げ、友好と尊敬の意を表していますが、クールベは踏ん反り返った仏頂面です。

さらに、作品の題名が「こんにちは、クールベさん」です。本来は、絵画を買う立場であるパトロンに敬意を払って「こんにちは、ブリュイアスさん」にすべきところだと思ってしまいます。

因みに、サブタイトルは「天才に経緯を捧げる富」だそうです、、笑。

事実、クールベは大層な自信家で、自分で執筆した自伝に「絵を始めた最初の時期から、我が国の数々の美術館にある最高の作品と肩を並べる作品を描いた」と記述しています。

 また、「私は見えるものしか描かない。天使を描いて欲しかったら、天使を連れてきてほしい。」といった名言でも知られています。

非常に強気な画家だったのでしょう。

画家のアトリエ

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1855年に描かれたこの作品は、前述した個展を行うきっかけになった作品です。サブタイトルは長く、「私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意」です。

絵の中央が制作をするクールベその人で、右側に彼の支持者、左側に市民の人々をそれぞれ描いています。

絵の右側には、クールベの制作を眺めるブルジョワ市民の姿があり、右端の本を読む人はボードレールです。パトロンブリュイアスも描かれており、彼の友人や支援者等の、人間関係を表しています。

一方、左側では「寓意」のタイトルが示すように、髑髏を載せた新聞はジャーナリズムの衰退を表し(当時の新聞がナポレオン3世の広報誌となったことへの批判)、生地を売る商人は商業活動を表しています。また、その周囲には農民や失業者、端には神父がいます。これは彼が絵のモデルにしていた名も無き人々を表しています。

つまりこの絵は、クールベが今まで見てきた興味関心を1枚のキャンバスに詰め込んだ、写実派絵画の集大成と言えます。

 クールベは個展の目録に、「私が生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する」という言葉が記載しており、こちらは後にレアリスム*1宣言と呼ばれます。

題材を聖書や歴史に頼らず、視覚を頼りに対象を描く写実主義は、マネを始めとする印象派に大きな影響を与えました。

*1:リアリズムのフランス語読み

【西洋絵画】ドラクロワ-ロマンを求める情熱の画家

先日は、アングルを紹介しましたので、今回はアングルのライバルとして紹介されることの多い、ドラクロワを取り上げます。

アングルは新古典派主義に属します。新古典派主義は古代ギリシャ・ローマ時代の美を理想とする立場です。これまでも評価されてきたこれらの時代の美(理想美)を、冷静に追求していきます。

躍動感のあまりない固定的な構図や滑らかな陰影が作品の特徴です。

 

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 これに対し、ドラクロワロマン主義です。こちらは、新しい美のあり方を模索していく立場です。言わば、情熱的に「美」を追い求めます。理想美を追求するだけでは先人の巨匠たちを超えることはできません。他者と違った作品を作り、個人がそれぞれ持つ美の基準(個性美)に訴えかける作品を作っていきます。

ロマン主義では、当時の戦争等の大事件を、リアルタイムに描いた時事画や、それに伴う悲惨な現実も描いています。

こちらは、躍動感ある構図や荒々しいタッチが特徴です。ドラクロワの他に、ゴヤジェリコーがロマン派に属します。

前置きが長くなりましたが、ドラクロワを紹介していきます。

経歴

ドラクロワ(1798年~1863年)はパリ近郊に生まれます。外交官の裕福な家に生まれたとされていますが、本当の父はタレーランという説が有力です。*1

ルーベンスの荒々しいタッチや、ヴェネツィア派(ジョルジョーネやティツィアーノらが有名)の色彩豊かな画風に影響を受けます。

1832年に、七月革命後のブルボン復古王政のもと、モロッコ使節団に同行します。当時はまだ写真がなかったため、記録係として画家が同行するのが習わしでした。

1838年にはブルボン宮殿図書館や、ヴェルサイユ宮殿の装飾を政府から依頼されます。

1863年に65歳で死去します。

民衆を導く自由の女神

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ドラクロワと言えば、これ!的な作品です。こちらは1830年に描かれました。フランス革命を描いたように思われますが、実は違います。(私も勘違いしていました。)

世界史が好きな方なら制作年でピンと来たかもしれませんが、七月革命を描いた作品です。

七月革命フランス革命によりブルボン王家が倒れた後、ナポレオン失脚後に再度ブルボン家が王権を握ったことに反発する革命です。1830年に起こりました。

この一大事件をドラクロワは同年に描いています。自由を求める民衆の躍動感が、ひしひしと伝わってきます。

中央にフランス国旗を持って乳を出している女性は、人間ではなく「自由」を擬人化した存在です。女性が被っている帽子はフリジア帽と呼ばれ、自由を象徴するアイテムです。(古代ローマで解放された奴隷に、フリジア帽を与えられたことが由来だそうです。)

また、女性と倒れている人とをそれぞれ結ぶと三角形の形になります。これは躍動感を演出するピラミッド型の構図で、バロック絵画でも多用されています。

因みに、シルクハットを被る紳士は、ドラクロワ本人と言われています。彼自身もブルボン家復権に対しての怒りを表現したのでしょうか。

タレーランはブルボン王政を復活させましたから、本当に父がタレーランとするなら、父に対して反対したことになります。

「キオス島の虐殺」

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こちらは1824年に描かれた作品で、同年代に発生したギリシャ独立戦争を描いた作品です。タイトルは「死か奴隷かを待つギリシャ人の家族」と続き、戦争の悲惨さを表しています。*2

写真がなかったこの時代、ギリシャ人の無残な様子を描いたこの絵画は、戦争写真のようなジャーナリズム的な意味合いもあり、ギリシャ独立を支援する世論の形成にも一役買ったのではないかと思います。ギリシャ1830年に独立が決定しました。

絵具が見えるほどの荒々しいタッチや、悲惨な事件を題材にしたことに対して当時の美術界は批判し、「絵画の虐殺」と揶揄したそうです。

「アルジェの女たち」

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1834年に描かれたこの作品は、モロッコ使節時のデッサンを基に描きました。美麗な服装や装飾品を身に付けるオリエンタルな女性の様子だけでなく、水煙草、絨毯、タイルやクッション等、当時の生活様式も伺えます。

アングルもオリエンタルな女性を描きましたが、その画風の違いに驚きます。

アングル「トルコ風呂」

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アングルと並ぶ巨匠でありながら、ドラクロワのアカデミーへの入会はなんと1857年で、死去の5年前です。しかも、アングルは最後まで入会を反対していたそうで、対立の根が深そうです。

しかしながら、当時の人々がリアルで臨場感の溢れるロマン派の絵画を求め始めていた世論もあり、ドラクロワはアカデミーへ入会します。

また、アカデミーからは嫌われていましたが、政府のモロッコ外遊には随行し、政府関係の仕事はよく受けていたので、政界と美術界とはそれぞれ権力が分立していたのだと個人的に思いました。

それでは本日はこの辺までと致します。お読みいただき、ありがとうございました。

*1:タレーランはフランスの政治家でウィーン会議に出席するほどの実力者

*2:ギリシャ独立戦争は、ギリシャオスマントルコからの独立を求めた戦争です。

【西洋絵画】アングル-19世紀フランス美術界の最高権威

本日はアングルとその代表作を紹介します。

 

アングル(1780年~1867年)はフランスの画家です。新古典主義に属します。

新古典主義と言えば、伝統や格式を重んじ、印象派のアンチテーゼとして絵画界に君臨していました。(因みに、ドラクロワ率いるロマン主義新古典主義と対立していました。)

宗教画や歴史画等の、芸術アカデミーや官展が認める古典的な作品を是とする価値観に他の画家達は反発していたのです。

因みに、梶井基次郎の「檸檬」の中に、アングルの名前が出てきます。(主人公は檸檬を手に丸善へ入店したが、好きだったアングルの画集が持てなくなったというシーン。)

西洋絵画が好きになる前に、アングルという響きが心に残っていたのですが、どうやらこれのようです。

経歴

フランスに生まれ、新古典主義の泰斗であるダヴィッドに弟子入りします。

1806年~1824年まで長期のイタリア滞在を行います。そこでラファエロの絵に感動し、ラファエロに傾倒していきます。

それまではぱっとしなかったアングルですが、イタリアからの帰国後に「ルイ13世の誓願」を発表し、絶賛されます。

1825年に美術アカデミー会員に、1833年に国立美術学校の校長となります。これはフランス絵画界の最高権威です。

そして1867年に死去します。

それでは、作品を見ていきましょう。

「グランド・オダリスク

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1814年に34歳で制作されたこの絵には、新古典主義の特徴である、滑らかな肌と曲線が描かれています。また、婦人の表情はラファエロの絵を彷彿とさせます。

ターバンや孔雀の扇子はナポレオンのエジプト遠征によるもので、多くの東方の文物がフランスに流入したようです。

曲線や表情がとても美しく、素晴らしい絵に思えます。しかし、当時の人々からは、デフォルメと言わんばかりの背中の長さや腕の長さが、多くの批判を受けたようです。

ルイ13世の誓願」

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イタリアから帰った年と同年の1824年にこの絵を発表したところ、多くの賞賛を浴び、有名画家の道を歩んでいきます。

絵の内容はルイ13世聖母マリアとイエスに誓願するという、タイトルそのままです。

特筆すべき点は、ラファエロの「システィーナの聖母」と構図、表情、光の当たり方等が酷似しているということです。

アングルにしてみれば、ダヴィッドに師事したけど上手くいかなかったから、違う道を模索した結果の大当たりというところでしょうか。

アングルがイタリアに着いたとき、「私は騙されていた」という言葉を残しているそうです。

「システィーナの聖母」

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1513年~1514年頃に制作された、ラファエロ最後の大作です。ラファエロと言えば、「聖母の画家」という位、聖母を描いた絵が人々に愛されています。優しく慈愛に満ちながらも威厳のあるこの聖母は、後世の画家の規範となりました。

 「トルコ風呂」

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1862年に描かれたこの絵はトルコの共同浴場を大勢の裸婦で埋め尽くした、アングル晩年の大作です。

この絵も女性たちが不自然に歪んでいて、デフォルメを思わせます。「グランド・オダリスク」で批判を受けた頃と、作品の形態が変わっていません。

アングルは82歳で「トルコ風呂」を描きました。ここに至るまでに、官展が好む多くの傑作を描いて、フランス絵画界の権威まで上り詰めました。周囲にアングルに批判できるような人はいません。

アングルは自分が思う理想の女性像を頑迷なまでに貫きとおしたのです。凄まじい執念と美への固執だと思います。

逆に、ここまでの気概がなければ、トップまで上り詰めないのかもしれません。

それでは今日はここまでとします。

お読みいただき、ありがとうございました。

【西洋絵画】ゴーギャン-南国の楽園に救いを求めた、破滅的人生

本日は、ゴーギャンと彼の代表作の紹介です。

サマセット・モームの「月と六ペンス」では、主人公の芸術家が安定した生活を捨てて芸術へ傾倒していく破滅的人生が書かれています。この主人公のモデルはゴーギャンだと言われています。

まさに、ゴーギャン(1848年~1903年)の人生も芸術に取り憑かれた人生でした。

ゴーギャンと言えば、タヒチに移住してからの作品が有名ですが、そこに至るまでの紆余曲折も書いた方が深みが出ます。少々長いですが、お付き合いください。

生涯

ゴーギャンはパリに生まれますが、生後すぐに家族でペルーへ亡命しています。

フランス帰国後は17歳で船員として働いた後、株式仲買人の仕事に就きます。

その2年後に結婚し、5人の子供を設けます。

彼は日曜画家として、働きながら絵を描いていました。このまま普通に働いていれば、家族に恵まれた安定した生活を送れたことでしょう。

しかし彼は1883年(35歳の年)に会社を辞め、画家としての人生を歩み始めます。

収入が安定しなかったために、その翌年には早速、妻が子供を連れてデンマークの実家へ戻っています。

ゴーギャン1888年ゴッホとアルルにて共同生活をしますが、僅か2ヶ月で「耳切り事件」が起こり、共同生活を解消。

ブルターニュのポン・タヴェン村に移り、制作を続けます。代表作に「黄色いキリスト」という作品がありますが、このモデルとなった黄色いキリスト像は、村の教会に実在します。

そして遂に、1891年、タヒチへと移住します。移住の理由は西洋文明に疲れたためや、安い生活費のためと言われています。絵画が評価されていなかったゴーギャンにとっては、起死回生を賭けての移住だったと思います。

1893年に一時帰国し、個展を開催しますが、結果は芳しくありませんでした。

失望したゴーギャンは1895年に再びタヒチに渡ります。

貧困や病気に悩みながら、孤独に制作を続け、1901年にタヒチよりさらに鄙びたマルキーズ諸島に移り、1903年に54歳で没します。

彼が評価されたのは死後でした。その自由な色彩表現はマティスらのフォービスムに影響を与えたと言われています。

生涯についての記載が長くなってしましましたが、絵画の紹介に移ります。

「イア・オラナ・マリア」

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1891年に制作された、タヒチ時代の代表的絵画です。絵の特徴としては、エキゾチックな現地の人を描きながらも、キリスト教的意味もばっちり込めた所が挙げられます。

画面右の、子を肩に載せた女性に対して、女性二人が手を合わせて祈っています。

子と女性の頭上には光の輪があることから、それぞれイエスとマリアと分かります。

画面左のピンクのパラオの女性には青い翼が生えていますから、こちらは天使です。

さらに、絵の題名の「イオ・アラナ・マリア」とはタヒチの言葉で、「マリア、私はあなたを礼拝する(アヴェ・マリア)」ということから、この絵は聖母子に祈るキリスト教的絵画と言えます。

ゴーギャンは一旗揚げるためにタヒチへ来たわけですから、ヨーロッパの人を驚かせるために生まれたのが、平面的で鮮やかな色彩で異国情緒を描きながらも、タヒチ女性をマリアに置き換えた斬新な絵画でした。

当時は人々が新古典主義から脱却し、印象派がようやく認められた時代です。

ゴーギャンの絵は時代を先取りしすぎていて、評価されませんでした。

「アリスカンの並木路、アルル」

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時代が前後して申し訳ないですが、これは1888年ゴッホとの共同生活時代に描かれた作品です。

こちらは優しい雰囲気と軽いタッチで描かれていて、印象派の影響を少なからず受けていたのではないかと思わされます。

しかしゴーギャン印象派絵画に対して、単に外の世界を描いているだけで、絵に意味合いがないという不満を持っていました。

ゴッホと喧嘩別れしてから、ブルターニュへ滞在しますが、そこで制作された作品から既に、眼前の風景と宗教的意味をミックスするという、印象派とは一線を画す絵画を目指していたことが分かります。

「黄色いキリスト」

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1889年に描かれたこの作品では、磔刑の黄色いキリストにブルターニュ地方の民族衣装を纏った女性が跪いています。農村の風景や農民とキリストとを同じキャンパス内で描いています。

この絵のように、見える世界と見えない世界を絵画の中で統合した作品を、綜合主義と言い、ゴーギャンが第一人者です。

「イア・オラナ・マリア」はこの絵画の延長線上に制作されたと言えます。

また、ブルターニュ時代に制作された絵画の特徴がもう1つあります。

ブルターニュの海岸」

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 こちらも1889年に描かれた風景画ですが、「黄色いキリスト」と共通する特徴として平面的に絵具を塗り、それが境界の役目も果たしています。このような表現をクロワゾリズムと言います。

そして、ゴーギャンの集大成とも言えるのが次の絵画です。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

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 これは1897年~1898年の二度目のタヒチ滞在で制作されたものです。作者自身で「これまでで最も優れており、これからもこれ以上のものは書くことはできない」とまで述べています。

当時のゴーギャンは困窮や病気に苦しんでおり、友人に宛てた手紙の中で、「死ぬつもりであったが、死ぬ前に大作を描こうと思う」と書いています。

また、娘の死も重なり、本作完成後は服毒自殺を考えていたようです。

これは、人生の全てを賭して描いた超大作なのです。

画面の右から左はそれぞれ時間の経過を表していて、若年期~青年期~更年期がそれぞれ描かれています。

旧約聖書の禁断の果実(林檎)を食べる場面を思わせる描写や、青白い像はポリネシアの月神ヒナを表しており、古今東西の様々なモチーフを組み合わせて描いています。

 おわりに

既存の価値観を否定し、自身の信じる芸術を表現したゴーギャンは、時代を先取りしていたために、当時の人から評価されることは殆どできませんでした。

しかし、死後の評価は私が言うまでもなく圧倒的なものがあります。

他の画家とは一線を画すその絵は、私たちは人目見ただけでゴーギャンの絵だと分かります。このような画家は数少ないと私は思います。

他者に伍することなく、人生の全てを芸術に捧げたゴーギャン

私はゴーギャンについて調べるまで、タヒチに移住してスローライフを満喫したお気楽な画家だとばかり思っていました。

しかしながら実際の、温かい家族を捨て、孤独や困窮に苛まれながらも南国に救いを求め、制作を続けたその人生は壮絶なものがあります。

今後、美術館等で彼の絵を見る際は、画家の苦悩を想像することで絵の印象も変わってくるのではないでしょうか。